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キャプテンコージの世界一周旅日記

ラ・アバナ(La Habana)

地図キューバ ハバナ

ハバナの空港では緊張の瞬間が待っていた。当時、キューバに入国したことがばれると、アメリカへの入国が拒否されると言われていた。その頃俺はまたいつアメリカで仕事があるか分からなかったし、日本へ帰る飛行機はアメリカ経由だったということもあり、なんとかキューバ入出国のスタンプをパスポートに押されるのを防ぐ必要があったのだ。

イミグレーションで俺はパスポートと一緒に手帳を出し、恐る恐る「スタンプはこっちに押してください」と係員に言うと、あっさり「はいよ」とその手帳に入国スタンプを押してくれた。だがこれだけでは終わらない。

さらにキューバでは、旅行者は政府指定のホテル(もちろん高級ホテル)に泊まらなければならないという規則があった。噂通り、ホテル斡旋所みたいなところに連れて行かれ、渡されたホテルリストの中でどれかを予約するように言われた。見るとやはり1泊100ドル以上もするホテルばかりだ。「ホテルは自分で探す」と言うと、ここでもあっけなく「いいよ」と開放された。

写真次は両替だ。キューバでは公式レートとその数十倍の非公式レートの2つがあり、外国人が適用されるのが公式レートだ。こればかりは逆らえないだろうと思って両替をしに銀行に行こうとしている時、若い男に話しかけられた。タクシーの運転手で、少し英語を話すことができた。

俺が両替について尋ねると、ハバナではどこでも問題なくアメリカ・ドルが使えると言う。さらに、安宿を探したいと言うと、彼の友達の家に泊まることができると言う。それも面白いと思い、俺はそのまま彼のタクシーに乗り込んだ。

連れて行かれたのはハバナの中心部から外れた、思いっきり庶民のエリアにある古いアパートだった。男と一緒に階段を上り、ある部屋のドアをノックした。上半身裸でマフィアのような人相のおじさんが出てきた。彼は俺を一睨みすると、タクシー男と何やらスペイン語で話を始めた。タクシー男が俺に「3食付きで20ドルだ」と言った。

俺は値段がどうこうというのではなく、その立地とアパートの雰囲気とおじさんの顔に完全にびびって何も言えずにいた。タクシー男はそれに気付いたのか、「心配ない。彼はスペイン語しか話せないし顔も怖いが、いい奴だ」と言うので、これは一つの冒険だと自分に言い聞かせ、その家に泊まることにした。

写真家の中は思っていた以上に奇麗だった。奥さんを紹介された。彼女の人の良い笑顔で一気に俺の中の緊張が解けた。しばらく3人で話していると、たまに見せるおじさんの笑顔も実は愛嬌があることに気付いた。間もなく俺は彼等のことを「パドレ(お父さん)」「マドレ(お母さん)」と呼ぶようになっていた。

その家には俺の他にもう1人の居候がいた。ハバナの大学にスペイン語を勉強しに来ている、ノルウェー人の留学生だった。見た目はクールだが、ユーモアのあるいい奴だった。食事はマドレがキューバの家庭料理を作ってくれ、4人で食卓を囲んだ。夕食の後はラムを飲みながら皆で色々な話をした。

話をすると言っても、「オーケー」くらいしか英語を知らない2人とコミュニケーションを取るのは大変なことだった。だが、スペイン語を覚えたいと思っていた俺にはむしろいい環境だった。たまにノルウェー人に助けてもらったりもしたが、俺はなるべく辞書を使いながらも自力で彼等と話をした。

写真ハバナの旧市街はとてもいい雰囲気の街だった。細い石畳の道の両脇には、古めかしく上品なパステルカラーの建物が並んでいた。カフェではサルサのバンドが入っていて、中では観光客がコーヒーを飲みながらそれを聞き、外ではハバナっ子達が踊っている。あてもなく歩いていると、いつのまにか海に出る。強い日差しを受けてキラキラと輝くカリブ海をしばらく眺めてから引き返し、バーでモヒートを飲みながら葉巻を吸う。。。

と、ハバナの雰囲気というよりもむしろ自分に酔っていた感の強い旧市街ももちろん良かったのだが、俺がそれよりも好きだったのはアパートの周り、庶民の街だった。そこにはキューバの生活があった。もう何十年走っているのだろうという車が走り、今にも崩れ落ちそうな建物が並び、そんな中を陽気な若者達が歩き、薄暗い酒場でおじさん達がラムを飲む。

それは、キューバを代表する作家、レイナルド・アレナスが『夜になる前に』の中で書いていた退廃的なキューバではなく、ヴィム・ヴェンダース監督の映画、『ブエナ・ビスタ・ソシアル・クラブ』の中で描かれていた、味のあるキューバそのものだった。イブライム・フェレールが奥さんと手を繋いて鼻歌を歌いながら歩いていた街並みだった。これがキューバ、これがハバナだと思いながら俺は飽きることなく歩いていた。

写真そんなとき、ある男に話しかけられた。陽気な男だった。その男は英語を話した。こういう国で、英語を話すことができる陽気な男は、外国人を見れば話しかけたくなるものだ。俺もむしろそういう会話をいつも楽しんでいる。

話の中で、男は「キューバ音楽は好きか?」と俺に聞いてきた。サルサのことかと聞くと、トラディショナルな方だと言う。正直、映画としてのブエナビスタは好きだが、キューバ音楽はまあ嫌いではないという程度だったのだが、彼等の誇りを傷つけてはいけない。「大好きだ」と答えた。すると「よし、じゃあいい所へ連れて行ってやる」と言って男は歩き出した。俺の予定などお構いなしのようだ。もっとも、何の予定もなかった俺は男に付いて行った。

男はどんどん住宅街の中へと入って行く。俺がどこへ行くのかと聞いても教えてくれない。ただ付いて来いとだけ言う。ちょっとだけヤバイかなとも思ったが、その辺りは俺のアパートがある地域よりはずっと治安も良さそうだし、何よりその陽気な男が悪い奴にも思えなかったので、俺はそのまま男と一緒に他愛もない話をしながら歩いていた。

一軒の家の前で男は「ここだよ」と言って勝手にその家に入った。俺も後から付いて入ると、男は中から出てきた若い男と親しげに握手をして、俺のことを紹介した。俺も彼と握手をした。玄関を入ってすぐのその部屋はリビングか応接間のようだったのだが、壁には額に入れられた写真や記念品のようなCDがびっしりと掛けられていた。そしてそのほとんどが『ブエナビスタソシアルクラブ』に関わる物だった。中でも老ギタリスト、コンパイ・セグンドのものが多かった。

俺が「コンパイ・セグンドのファンなんですか?」とその男に尋ねると、2人は突然笑い始めた。そしてぽかんとしている俺に向かって、陽気な男は「ここはそのコンパイ・セグンドの家なんだよ!」と言った。

写真一瞬何のことか分からなかった。コンパイ・セグンドの、家???そして男は改めてその若い男を「コンパイ・セグンドの息子さんだ」と俺に紹介した。そう言えば、映画の中でも90歳を迎えたコンパイは、「俺はまだ男としても現役だ。子供が5人もいるし、今6人目を作っている」と言っていたことを思い出した。この人がその子供の1人なのか!

その日、コンパイはライブのために市内に出ているとのことだった。今でも毎週火曜日はライブの日だという。映画の撮影が98年のことだったから、今はもう92,3歳のはずだ。それでいてなおかつコンパイ爺さんは現役バリバリなのだ。実際に会うことはできなかったが、俺は物凄い男に触れたような気がした。

アパートに帰って、興奮のままパドレに「コンパイ・セグンドの家に行ったんだよ!」と報告しても、彼は「そりゃ良かったなー」と言う程度で、特別驚いた風もなかった。むしろその態度に俺が驚かされたが、それだけコンパイはキューバの人々にとってみれば近い存在なのだろうか。俺はそんなキューバの風土を、とても素敵だなと思った。その夜のラムは、格別の味がした。

<編集後記>
俺がハバナに行った2年後に、コンパイ・セグンドは亡くなった。享年95歳だった。果たして、6人目の子供は作ることができたのだろうか。。。

ハバナでラムの味を覚えた俺は、その後もラムにすっかりはまり、今wajaカフェで最も充実しているお酒はラムになった。もちろんモヒートは本場の味だ。

(写真上左:新市街の革命広場にある巨大なチェ・ゲバラの顔 上右:パドレ、マドレ、居候 中左:ハバナ旧市街のカフェでの風景 下右:アパートからの街並み 下左:コンパイ宅にて)